新幹線がやってきた |
鉄道の建設はそもそも明治政府の乾坤一擲(けんこんいってき)の賭けでもあった。苦難末樹立した維新政権も統治が徹底せず、明治二年には凶作も相まって、全国百十三ヵ所で暴動が起きていたいわゆる世直し一揆である。上田も例に漏れず同年チャラキン騒動が起き、海野町、原町等、町の中心部約三百五十戸が焼失している。
このような事態に政府の将来に危機感を抱いたのが当時大蔵官僚であった大隈重信(当時三十二歳)と伊藤博文(当時二十九歳)である。後に総理も経験する二人は何とか人心を統一し、政府の存在感をアピールする事業の必要性を痛感、鉄道に着目し、建設を政府に具伸した。しかし、猛反対に遭う。その急先鋒は西郷隆盛、大久保利通などそうそうたるメンバー。理由は予算の不足で、むしろ軍備拡張に使うべきという意見が圧倒的。他に職を失う飛脚や車夫等や用地買収に絡む民間の反発もあった。
二人は粘り強く公卿や軍部を説得、明治五年、新橋−横浜間の開通にこぎつけた。
二人の思惑は的中、以後わが国は飛躍的に発展を遂げ、人心も統一されていった。碓井峠の難工事もあり、中央より十六年遅れるが上田駅も開業した。
上田は政府の指針に巧く乗り、流通の道があけたシルクは海外へ円滑に輸出され、見返として日本の近代化に必要な織物が輸入された。このように国の雄飛に大きく貢献した上田だが、重要なことは、驕ることなく常に官民一体となり貴賎の別なく発展へ弛まぬ努力を続けたことである。
現代の上田の商工業で対外的に誇れるものはあまり見当たらない。農業も第二次産業に人手を奪われ衰退の一途、また、先頃市が実施した「上田まちづくりアンケート」では、繁華を極めた中央商店街が「嫌いな所」のワースト3に入る結果となっている。
このような状況下でも新幹線駅、高速道ICという他の中堅都市がうらやむ二つの大きな゛神器"が相次いで備わった。今なにをするべきか、唱歌の最終行が一言で語っている。「繁華を互にはかるべし」。