早ければ今年度中にも取り壊される大門町ビル (旧上田東駅の近く) |
おたやさんから再び横町を中程まで引き返すと、その左手、つまり海野町の突き当たりには当時、名刹願行寺の山門が聳えており、現在、大門町と呼ばれる一帯は広大な寺の境内であった。
この門が、現在の位置に移され大門町が開通するのは大正十四年である。
町の生生発展により中心部が手狭となり、高等女学校(歌唱十九番)浄水場(同二十三番)警察署(同二十七番)などが続々と、それまでは田畑であった東部地区に新天地を求めた。さらに、大正五年には東小学校、同六年には上田蚕種、同十一年に小県蚕業学校(現上田東校)、十二年には裁縫女学校が次々とこの界隈に建てられた。これに付随し、大正六年〜八年にかけて日ノ出町、愛宕町が町の東部を南北に貫いたのを皮切りに、桜木町(北国街道下常田−材木町)、白銀町(桜木町−日ノ出町)、坂井田町(鍛治町−愛宕町)そして、大門町(海野町−桜木町)と相次いで新路が開かれ、新市街を形成していった。
さらに都市化を進展させたのが大正十四年大門町と桜木町の交点に丸子電鉄の終点、上田東駅の設置である。駅前には商店街が形成され、大屋、丸子小県方面の人々を迎え、さらに県下一、二を争う目抜き通りになった。
町の発展に寺城を提供した願行寺は、真田昌幸が上田城築城の際、海野郷(東部町本海野)から移した浄土宗の寺で、江戸時代初期の建立と推定される山門は桃山建築の様式と風格を伝え、市の指定文化財となっている。
上田藩主となった松平氏は、この寺を菩提寺とした。街路北の墓地左手には代々の殿様の墓がある。しかし、廃藩約三十年、訪れる人も減り、御供えの器に錆び、苔むした様子を唱歌は歌っている。
大門町通りは、今整備工事が進み、市街と産業道路を唯一東西に結ぶ重要道路としての面目を新たにしようとしているが、これに伴い上田のテナントビルの走りとして昭和二十七年誕生、一世を風靡した「大門町ビル」は平成九年度度中に取り壊された。