丸山平八郎、上田城地買い上げ

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矢出沢川沿いの丸山平八郎氏屋敷。
左端が丸山稲荷。石垣は上田城当初のもの。

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向源寺

 風紀上、人権上など終始様々な問題が付きまとった上田遊郭だが、客の多くは、蚕種業の隆盛で経済力豊な男達で、商売で東京とを往復する度に、中央や異国はもちろん、江戸の名残りの文化を上田にもたらした。遊郭内でも俳句、狂歌、都々逸等を掲載した雑誌が創刊され、江戸の粋と遊び心を伝え、延いては上田の庶民文化の発展に貢献した。

 遊郭とは無縁だが、江戸の町人文化といえば小林一茶。彼が江戸へ赴く前の数年間逗留したのが常盤城の向源寺で、数多くの遺墨や日記が現在も残っている。二十歳前後の最も感受性豊かな頃の一茶の貴重な資料、公開がまたれる。

 向源寺の脇で矢出沢川にかかる橋は高橋。上田城下町の入口にあたり、防備のための桝形となっている。この橋のたもとが、廃城となった上田城地のほとんどを買い上げた常盤城村の富農丸山平八郎氏の屋敷である。同氏はその後も町の声によく耳を傾け、取得した土地をほとんど無償で提供、公園の整備、各施設の建設に大きく寄与した。今日の上田城を語るに忘れてはならない人物である。

 屋敷の西面、矢出沢川沿いの石垣は上田城当初の石垣を移築したものであり、唱歌に歌われている丸山稲荷も北櫓の石垣上から移され、この一隅にある。

 唱歌二十番とこの二十一番に出てくる鎌原神社、須波三穂神社、生塚神社の各社は、それぞれ鎌原村、西脇村、生塚村など「城下囲いの村」の産土神(うぶすながみ)、すなわち鎮守様である。

 城下囲いの村とは、昌幸が築城地、城下町の外郭形成のため周辺の村を町の入口に移住されたものである。

 神社は上田バイパスの下方に点在しており祭神は全て諏訪明神。十月は、日本全国の神が出雲の国へ集まり里には神がいないという神無月。しかし、諏訪明神は出かけないというから、諏訪系の神が多い上田は”神在月”。大方の秋祭りも十月に行われる。