![]() 明治5年、取り壊し進む上田城。 南櫓はすでにない |
慶長五年(一六〇〇)天下分け目の関ヶ原へ向かう徳川秀忠率いる三万八千人の大軍を迎え撃ち、大いに翻弄し敗走させた第二次上田合戦。勝利の要因は真田昌幸。幸村父子の才覚はもちろんのこと、上田城の構えの至高さにあるといえる。
しかし、明治二年の版籍奉還、同四年の廃藩置県で、天下に名を馳せた要砦も廃城となり、藩領は長野県に統合される。同年、維新政府は東京、大阪、東北、鎮西に四鎮台を置き、東京鎮台には新潟、上田、名古屋に分営を設置した。東京鎮台第二分営長として上田に着任、上田城を受け取ったのは、後に日露戦争で知られる之木希典(当時少佐)であった。そして約一万三千坪の城地と建物は競売にかけられ、民間に払い下げられることとなった。
大蔵省が示した払い下げ価格は城地約九百円、櫓(当時は九棟あった)約百二十円、松杉約千本二百八十円等であった。しかし、思惑通りには行かず櫓は一棟六円で分売された。同じ年、新橋・横浜間の汽車賃が上等車で一円二十銭というから、兵(つわもの)どもの夢の末路の侘しさが伝わってくる。
その上、二つの櫓は明治十一年、緑ヶ丘新屋地区につくられた上田遊郭の金秋楼、万豊楼の建物として移建され、天下の名城も一転して享楽の不夜城と化してしまった。
現在の北櫓石垣上にあった丸山稲荷、最近まで料亭として使われていた明倫堂、真田神社脇にあって昭和十二年二の丸に武徳殿が竣工するまで市民体育館として親しまれた演武場など歌詞にはさまざまな建物が登場するが、これらは引き取り手がなく一時期放置された感のある建物で、作者は城地内の賑いを表現したのではなく、むしろ、少年時代から見てきた訪れる人もなく、無数カラスのねぐらに変じた城跡を憂いているように思われる。
上田城祉が公園として少しずつ整備が始まったのは明治三十年頃で、上田市が櫓二棟を買収し、現在の南、北櫓が復元されたのは昭和二十四年である。