県下初の車坂教会 (日本キリスト教会上田教会) |
焼失したとはいえ、翌年には再び三階建ての壮大な小学校舎が新築されたということは上田の富の豊かさのあらわれであろう。町自体も教育に情熱を注いだ。停車場開業の翌明治二十二年、上田町予算の歳出総額は約七千五百九十五円、内教育費は四千三百九十六円で、実に六割をしめていた。上田の信州教育の伝統を担う自負が十分にうかがえる。 子供たちに笑顔が戻った小学校をあとに、唱歌が歩くのは、現在の八十二銀行の西側の錦町通り。 やがて見える教会堂は、日本風の瓦屋根に白い十字架をのせ”車坂教会”と呼ばれ親しまれる日本キリスト教会上田教会。明治九年に設立された長野県下最初の教会である。初代牧師は旧長岡藩士であったため、開化の胎動を感受しようと多くの上田藩士が入信した。さくら銀行裏手という市街地の中で緑に囲まれた約やかな佇まいは逆に風雪に耐えた重みを感じさせてくれる。 このほかカナダメソジスト教会が明治二十五年市内鎌原に講義所を開き布教を始めた。この間、内村鑑三も再度上田を訪れ講演し、熱心に教えを説いた。これらの努力により、明治三十三年に梅花幼稚園、同四十年には常田幼稚園が相次いで開園、さらに同三十八年には幼稚園保母伝習所が開設されるなど画期的な展開を見せた。 カトリック上田教会の前身、天主公く教会は明治三十年から上田で布教活動を始め、鷹匠町、新参町と拠点を移し、現在の権現坂上に礼拝堂を建てたのは昭和二年のことである。当時いずれも苦しみながらの布教であったが今日の上田における幼児教育の基礎を確立した業績は多大である。 そして正面は現在の上田高校である上田藩主の居館址。真田信之により建てられた約百四十メートル四方の広大な屋敷跡は今も、表門、土塀、堀に往古の雄姿をしのばせている。
この通りは、大手門公園から北へ伸びる松原町とともに明治のはじめ、大手門の石垣や土手を崩し、堀を埋め立てて作られた道である。