![]() 海野町交差点 |
上田唱歌による蚕都散策の旅は反映の一途をたどる上田停車場界隈から、やはり活況感あふれる商店街の中心部へと向かう。
海野町交差点、現在の一富士の位置に上田郵便局が新築移転したのは、この唱歌の発表された年と同じ明治三十六年であった。
明るい色調で数多くの窓にはガラスがふんだんに使われ、総レンが造りの公衆トイレをともなった瀟洒な洋館はたちまち上田の新名所となった。
飛脚にかわる郵便のはじまりは、明治四年政府が東京・京都・大阪間で郵便事業を開始したのにはじまり、翌五年にはほぼ全国に実施され、同六年には均一料金制度がとられた。上田は同五年、海野町の柳沢太郎兵衛宅に郵便取扱所が設置された。やがて同八年、三等上田郵便局と改称され、飯島七郎兵衛が局長を命じられ、横町の自宅で業務を行った。当時の料金は、二十五里(約百メートル)以内は書状の重さ四匁(約十五グラム)まで一銭で距離と重さによって定められていた。
また同年に開始された通常為替業務、同十一年から始まった郵便貯金でも上田郵便局は着実に実績を積み重ね新庁舎建設が実現した。落成の前年の上田郵便局の取扱量は、通常郵便が約九十七万通、小包郵便が約二万七千個そして約五千八百人の人達が郵便貯金を利用していた。同四十三年には柳町、川原柳、常入、新町の四無集配局も設置され庶民生活に浸透していく。
そして何よりも局舎建設にこの場所が選ばれたのは、今後上田の街の中心部となる将来性を見据えてのことである。
唱歌の作者飯島保作氏も明治十五年から十年間、同二十七年から二年間局長を勤め、上田の郵便事業に尽力しているだけに局舎の完成は万感胸に迫る思いであっただろう。
同じく歌詞中の「里程の木標」も局前に建てられ「東京迄汽車路百十二里 陸路四十九里十三町」など全国各地への里程が記されこの四辻が上田の町の中心であることを示している。