大繁盛の松尾町、 旅館13軒も再生へ 今日からイベント

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明治時代の上田駅、三本の線路は上り、下り、貨物

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  上田駅の開業により町の中心部と駅を結ぶ道路の開設が急務となり、明治二十二年、千曲川段丘の絶壁を切り崩し道を造成、町を作った。工費、土地買収などで総費用は約七千円の予算を計上、急ピッチで工事が進められたという。

 こうしてできた「停車場新道」は真田氏ゆかりの名をとって「松尾町」と名付けられた。「道幅広き」とあるのは交通量の増加を想定し八メートル幅の道にしたこともあるが、明治二年のチャラキン騒動で当時道幅の狭かった海野町で二百九戸が焼失するという前例を踏まえての策でもあったのだろう。そして、沿道及び周辺には上田屈指の有力企業が相次いで進出してきた。

 松尾町に進出して成功した顕著な例が「みすず飴」で今や全国に知られる飯島商店である。柳町にあった米穀問屋の同店は、松尾町に新工場を建設、明治三十五年より製飴業に着手、大正八年に完成を見たのがみすず飴である。

 その他、松尾町及び上田駅周辺には、倉庫会社、運送会社、旅館など蚕種業に関連した企業が続々と開業した。

 当時、上田駅の利用客数は長野に次いで二位であったが、貨物の取扱量は蚕種業、農業などの隆盛の影響もあり県下トップ「蚕都上田」面目躍如といったところであろう。

 また「軒をならべし商店」は明治三十三年頃、旅館十三、牛肉店三の他、菓子店、理髪店、繭糸業、印刷所などが軒を連ね、つい数年前まで千曲川の氾濫にまかせ荒れ放題だった一帯とは思えないほど様相を一変させ、まさに「土地の繁華」、その賑わいはとどまるところを知らなかった。

 そして逆に、信越線経由に反対した、北上田、原町北部には衰退の兆候が見られはじめ上田の中心は海野町の四辻に移行していく。