明治28年、県下初上田商業会議所設立

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原町に落成した上田商工会議所庁舎

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横町の「おたや」さん

 

 横町は上田城下町最大の商業地、海野町の“横”につくられた町で、下横町と呼ばれる南半分は道路の拡幅工事も終わり、こぶし並木の近代的な街区となった。

 その横町の北の端にあるのが「太神宮の宮居」、現在おたやさんとして市民に親しまれる伊勢宮である。昔、伊勢神宮の御師がお礼を届けに来て宿泊した「お旅屋」が「おたや」になったという。また、福だるまやまゆ玉を買う縁日の一月十四日は小正月を前にした忌みつつしむ夜の「おたい夜」からきたとも言われる。

平成九年、創立百周年を迎えた上田商工会議所(堀謙三会頭)は当初、伊勢宮に隣接する小県郡神職取締所内に事務所を置きスタートをした。

 その母体は明治二十一年、上田の主だった商工業者が、事業に関して利害得失を研究し一般事業家に適切な助言、指導を施し、公益を増進しようと県知事の認可を受け設立した私設団体「上田商工会」である。

 やがて、上田の商業が活況を帯びるにつれその指導推進機関として、日清戦争の勝利で日本の前途が洋々とした明治二十八年十二月、上田商業会議所へと発展した。これは長野より五年、松本より十三年早い、県下に先がけての設立である。

 よく二十九年の選挙で初代頭取に第十九国立銀行の設立者、黒沢鷹次郎が就任した。上田唱歌の作者、飯島保作(花月)も黒沢会頭時代の二十一年間、副頭取をつとめ、大正六年から四年間は会頭となり、商工業の発展を細やかにバックアップするとともに、同八年の市制施行を控え「市」と呼ぶにふさわしい町づくりに助勢をおしまなかった。

 待望の市政施行と同時に事務所は大手(現上田商工会議所)にあった市庁舎内に移転、市と一体となりライバルである先輩都市、長野、松本に追いつけ追い越せと都市化推進の核となり馳駆(ちく)した。

 昭和三年一月、上田商工会議所と改称、同十年原町(現上田信金本店)に、発展する上田にふさわしい新庁舎が落成した。